「新しい心を与えてくださる神」

2012年5月6日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 エゼキエル書 36章24節から28節

恵みの上に成り立つ生活
 「わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる」(24節)。そう語られていました。「すべての地から集め」と言われているのは、すべての地に散らされているからです。「お前たちの土地に導き入れる」と言われているのは、実際には自分の土地から離れているからです。

 ここで「お前たちの土地」と呼ばれているのは、今日のパレスチナです。聖書においては「カナンの地」と呼ばれ、「約束の地」「乳と蜜の流れる地」とも呼ばれている土地です。それはもともと彼らの土地ではありませんでした。彼らはエジプトの奴隷だったのです。その奴隷であった民が神によって解放され、エジプトから導き出され、荒れ野を導かれ、やがて約束の地に入れられたのです。

 それは約束された豊かな地、乳と蜜の流れる地でした。そこに導き入れられたのは、彼らがそれを受けるに相応しいからではありませんでした。彼らがエジプトから導き出されたのも、約束の地を与えられたのも、すべては神の恵みによるのです。その意味において、与えられた約束の地は神の恵みを象徴していると言えます。その土地の上における生活は、まさに神の恵みによって与えられた生活でした。神の恵みの上に成り立っている生活だったのです。

 神の恵みの上に成り立つ生活ということならば、私たちにも分かります。それは信仰者の共通認識と言えるでしょう。神を知ることは恵みを知ることでありますから。そのように、神の恵みによって今あるを得ているのなら、神の恵みによって与えられた生活なら、大切なことは恵みに応えて生きることなのでしょう。恵みによって与えてくださった方を忘れず、恵みによって与えてくださった方を大切にし、恵みによって与えられた生活を大切にすること。それが恵みに応えて生きるということです。

 ですから、約束の地に入る直前に、モーセはこう言っているのです。「あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」(申命記6:10)。そうです、恵みによって与えてくださった御方を決して忘れないように。その御方のみを畏れ、その御方に仕えなさい。仕えなさいとは礼拝しなさい、ということです。主を尊び、主を礼拝しなさい、と。それが恵みに応えて生きるということです。

恵みを踏みにじった人々
 しかし、そのようなモーセの言葉がこうして書き残されているのはなぜでしょう。それはいつの時代においても、主を忘れるということは起こり得るからでしょう。人がどんなに大きな恵みを受けても、その御方を忘れるということは起こり得るのです。どんなに大きな恵みを受けても、与えてくださった方を尊びもせず、礼拝することもなくなる。そのようなことは起こり得ることです。そして、事実イスラエルにおいて起こったのです。

 エゼキエル書に戻ります。今日お読みした箇所の少し前にはこんなことが書かれています。「主の言葉がわたしに臨んだ。『人の子よ、イスラエルの家は自分の土地に住んでいたとき、それを自分の歩みと行いによって汚した』」(16‐17節)。彼らは恵みの上に生活していたのに、その恵みを象徴する土地を「汚した」というのです。言い換えるなら、神の恵みを踏みにじったということです。何によって。自分の歩みと行いによってです。そうです、人は恵みの上に生活させていただいていても、自分の歩みによってその恵みを踏みにじって汚すようなことをするのです。

 その後に、「自分の歩みと行いによって汚した」ということが、別の表現で言い換えられています。「彼らが地の上に血を流し、偶像によってそれを汚したからである」(18節)。「血を流す」とは他の人間を傷つけること、殺すことです。「偶像によって」とは、神ならぬものを神とすることによって、ということです。他の人間を人間として大切にしないこと、神を神として大切にしないこと。人を人とせず神を神としないこと。恵みを与えてくださった神を忘れたそのような生活によって、そのような歩みによって人は神の恵みを踏みにじり汚すのです。それがイスラエルの歴史において起こったことでした。

 その結果どうなったのでしょう。「わたしは彼らを国々の中に散らし、諸国に追いやり、その歩みと行いに応じて裁いた」(19節)と書かれています。彼らは恵みによって与えられた土地を汚したので、その土地を失うことになりました。恵みを踏みにじるなら、恵みを失うことになります。恵みの上に成り立っていた生活も失うことになるのです。

神の赦しにより再び恵みの中へ
 しかし、そのような人々に対して、先ほどお読みした言葉が語られているのです。「わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる」(24節)。彼らは確かに土地を失いました。しかし、土地そのものが消えて無くなったわけではありません。しかも、それは依然として「お前たちの土地」と呼ばれているのです。彼らは恵みの上に成り立っていた生活を失いました。しかし、恵みそのものが無くなってしまったのではありません。神は彼らの土地に再び導き入れることがおできになる。赦しの神は、罪を赦して恵みの中に再び導き入れることがおできになる。神は人が恵みを失ったままでいることを望んではおられないのです。人を恵みの中に導き入れ、人を恵みの中に回復することを望んでおられるのです。それが聖書が私たちに伝えている神様です。「わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる」と言われる神なのです。

 そのようにイスラエルは神に赦され、再び自分たちの土地に入れられます。もちろん、それは必ずしも元の生活が直ちに回復することを意味しません。この章には繰り返し「廃墟」という言葉が使われています。そうです、彼らが再び自分たちの土地に導き入れられるなら、そこで廃墟を目にすることになるのです。廃墟とは何か。罪の結果です。人は罪の結果を見ることになる。ですから、私たちは神を忘れた生活を、神に背いた行いを、決して小さなことと考えてはなりません。「どうせ赦されるのだから」などと決して考えてはなりません。罪は神によって赦されても廃墟は残るのです。

 しかし、廃墟を見ている人に対しては別のことを語ることも許されるでしょう。神によって罪を赦していただいたなら、たとえ廃墟のような現実を目にしていたとしても、既に恵みの中にあるということもまた事実です。彼らがたとえ廃墟を見ていたとしても、既に自分の土地の上にあることは事実であったようにです。たとえ依然として苦しみがあったとしても、悲しみがあったとしても、既に恵みの中にあることを信じて生きたらよいのです。そして、恵みの中にあるならば、廃墟は神が建て直してくださると信じたらよいのです。神が恵みの上に営まれる生活を回復してくださる、と。

わたしの霊をお前たちの中に置く
 しかし、それ以上に大事なことがあります。神が廃墟を建て直してくださるという約束は、神がただすべてを元通りにしてくださることを意味しないのです。単純に失われたものが返ってくることではありません。神が与えようとしているのは外なるものの回復以上に、内なるものの変化なのです。神が望んでおられるのは恵みを踏みにじって生きてきた人間そのものが変わることなのです。神は廃墟を建て直すこと以上に、人間が変わることに関心を持っておられるのです。

 それゆえに主は言われるのです。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」(25‐27節)。

 これが神の望んでおられることであり、行おうとしていたことでした。ならばエゼキエルの言葉を聞く人々もまた、廃墟が建て直されること以上に、このことをこそ願い求めなくてはならないのでしょう。そのようにして、彼らは約束の地の上で、神の民として再び生きることができるのです。「お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる」(28節)と書かれているとおりです。

 この神の御心が後にはっきりとこの地上に現されたのが、キリストの復活から五〇日目の出来事でした。五旬祭の日が来て、弟子たちが一つになって集まっていると、彼らの上に聖霊が降ったのです。キリストの弟子たちにおいて、まさに「わたしの霊をお前たちの中に置く」というエゼキエルの預言が実現したのです。その出来事を記念して祝うのが、3週間後に迎える聖霊降臨祭(ペンテコステ)です。

 私たちはキリストのみ苦しみを思いながら受難節を過ごし、そして復活祭(イースター)を祝いました。しかし、十字架と復活だけを思って立ち止まってはなりません。その先には聖霊降臨祭があるのです。罪が赦されて恵みの中に導き入れられたことだけを喜んで立ち止まっていてはなりません。神は私たちの内に神の霊を与え、私たちを内側から変えようとしておられます。私たちが内側から変えられて、まことに神の御心を行う神の民となることを望んでおられるのです。聖霊降臨祭に向かう今、いよいよ熱心に私たちの内に働く神の御業を祈り求めましょう。聖霊に満たされることを祈り求めましょう。あのエゼキエルの預言が私たちの内に実現することを切に祈り求めましょう。

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