「あなたがたの体は聖なる神殿です」

2010年1月31日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 6章12節~20節

 今日お読みした聖書箇所で、パウロは繰り返し「知らないのですか」と言っています。そうです。コリントの教会の人たちが知らないことがあったのです。あるいは聞いたことはあるけれど忘れてしまっていることがあった。それは何でしょう。パウロは言います。「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか」(15節)。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(19節)。「知らないのですか」。――知らなくてはならないこと。それは神が私たちをどう見ていてくださるか、キリストが私たちをどう見ていてくださるかです。

 私たちは、人が私たちをどう見ているかはとても気にします。人がどう言うか、どう評価するか。そのことを非常に重んじます。しばしば人の言葉によって自分の評価を決定します。人からどう扱われるかによって、自分をどう見るかを決めてしまいます。人から粗末に扱われ、人から無価値なもののように言われれば、そのことに簡単に同意してしまう。「ああ、わたしは粗末に扱われる程度の人間なんだ。わたしは無価値な存在なんだ。生きている価値のない人間なんだ」と。

 自分をどう見るかによって、生き方は決まってしまいます。自分を価値のないつまらない存在だと見ているならば、そのような人として生きることになります。私たちは往々にして、人の言葉や人の扱いによって自分の価値を値踏みしてしまう。そして、その結果、人の言葉や人の扱いによって自分の生き方を決めてしまうのです。それほどに、人から何を言われるか、どう扱われるかを重大に受け止めながら生きているものです。

 しかし、本当に大事なのは、人がどう言うかではないのです。人がどう扱うかではないのです。神様がどう見ていてくださるか、キリストがどのように見ていてくださるかなのです。コリントの教会の信徒たちは、そのことをどうしても知らなくてはならなかった。それはもちろん、私たちも知らなくてはならないことです。そのことによって生き方が決まってくるからです。

あなたがたの体はキリストの体の一部です
 私たちがどうしても知らなくてはならないこと。その第一は、私たちの体がキリストの体の一部であるということです。

 これを書いているパウロは、二週間前の聖書朗読にありましたが、かつては教会の迫害者でした。エルサレムの教会を迫害するだけでなく、その迫害の手をダマスコにまで伸ばそうとしていたのです。その時の様子は、「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった」(使徒9:1‐2)と書かれています。しかし、そのダマスコへの途上でキリストに出会うのです。天からの光が彼の周りを照らし、彼は地に打ち倒された。そして、彼はこう呼びかける声を聞いたのでした。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」。パウロは声の主に問いかけます。「主よ、あなたはどなたですか。」すると答えがありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。これが使徒言行録に書かれているパウロの回心の出来事です。

 パウロが迫害していたのは教会です。個々のキリスト者です。しかし、キリストは「あなたが迫害しているイエスである」と言われました。それはイエス様御自身に対する迫害だったのです。迫害されている一人一人の苦しみや痛みは、イエス様にとって他人事ではなかったのです。なぜなら教会はキリストの体だからです。パウロが出会ったのは、十字架にかかられ、復活されたキリストでした。しかし、さらに言葉を加えるならば、復活して、教会を御自分の体として生きておられるキリストだったのです。

 かれこれ一年ほど前になりますけれど、私は斧で左手親指の先端3ミリほどを切り落としてしまったことがありました。そもそも、なんで斧など使っていたかを話しますと長くなりますので割愛しますが、ともかく使い慣れないものを使って怪我をしたわけです。幸い親指そのものを落とさないで済んだ。落としたのは先の方のごく僅かな一部でした。しかし、その時にわたしはどうしたでしょうか。「いやあ、体の一番端っこにある指のそのまた先っぽで起こったことですから、大したことではありませんよ」と言って平気でいたと思いますか。とんでもない。親指の先っぽで起こった事件は、この「わたし」にとって大事件だったのです。この「わたし」が痛んで、この「わたし」が大騒ぎをしたのです。「体の一部」ってそういうことです。親指先端3ミリだって、体の一部なのです。切り落とされたら大事件なのです。「キリストの体の一部だ」ということは、それほどにキリストにとって私たちは大事な存在だということです。

 さらに言うならば、「キリストの体の一部だ」ということは、《キリストが》私たちを必要としていてくださる、ということです。私たちがキリストを救い主として必要としている。それは言うまでもありません。しかし、私たちがキリストを必要としているだけでなく、キリストが「体」として私たちを必要としていてくださるのです。そう言いますと、「わたしは何もできませんから、教会にもイエス様にも必要ではないでしょう」と思う人がいるかもしれません。しかし、この手紙の後の方で、パウロはこう言うのです。「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(12:21‐22)。これは「不可欠だ」という言葉です。不可欠。誰がそう思っていてくださるのですか。キリストです。キリストが必要としていてくださる。私たちが自分を役に立つと思うか否か。そんなことはどうでもよいのです。キリストが必要としていてくださる。そして、キリストが用いてくださる。それが「キリストの体の一部だ」ということです。

 今日の福音書朗読では、イエス様が重い皮膚病を患っている人をいやされた話を読みました(マルコ1:40‐45)。その時に、イエス様がその手を差し伸べてその人に触れましたでしょう。手がその人をいやしたわけではありません。いやしたのはイエス様です。しかし、この世の体がなかったら、具体的には手がなかったら、その人に手を伸ばして触れることはできなかった。イエス様はその時、手を必要としたのです。私たちは、その「手」なのです。イエス様がこの世において人々に触れ、救いをもたらすために、この世に存在する手を必要としているのです。

 それが私たちです。私たちの体です。それがこの体をもって生きる私たちの人生です。だから大切にしなくてはならないのです。価値ない者のように扱ってはならないのです。ここでは具体的に「みだらな行いを避けなさい」とパウロは言っています。性的な不品行のことです。それは不道徳なことだから止めなさいなどとパウロは言っているのではありません。そうではなくて、私たちの体がキリストの体の一部であり、神にとって、イエス様にとって、どれほど大事な存在かを語るのです。「それ、イエス様の体なんだよ。大事で必要な体なんだよ。そんなことしていいの?」と。「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか」。私たちも、そのことを知らなくてはならない。私たちが自分をどう見るかで、私たちの生き方が決まってくるのです。

あなたがたの体は神殿です
 そして、さらにパウロは言います。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(19節)。私たちがキリストにとって必要な体だというだけでなくて、「あなたがたの体は神殿だ」とまで言うのです。

 この手紙が書かれた時点では、まだエルサレムに神殿がありました。ローマ軍によって破壊される前のことです。かつてイエス様と弟子たちがエルサレムに上った時、弟子の一人がその神殿を見てこう叫びました。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」(マルコ13:1)。紀元前20年にヘロデ大王によって修復・増築が開始され、石材を運ぶために千台の車を用意され、熟練した職人一万人が工事に当たったとも言われるエルサレムの神殿。神の住まいとして、公の礼拝の場として、神に献げられた壮麗な建物。それがパウロの知っている「神殿」なのです。

 そのことを考えます時に、そのパウロが「あなたがたの体は神殿だ」と言っていることに驚きを覚えます。明らかにギャップがありますでしょう。この手紙の宛先であるコリントの教会は、先ほど触れましたように性的な不品行に陥っている人がいると思えば、もう一方において「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」などと言って分裂して争っている。そんな教会です。そんな信徒たちです。それが「神殿」ですか。どう考えても、穴だらけ破れだらけのあばら屋ではありませんか。いや、私たち他人のことなど言ってられません。私たちは神殿を知らないから、軽々しく「私たちは聖霊の神殿だ」などと言えるのです。もし知っていたら、きっと口ごもるに違いありません。あまりにもギャップがありすぎますから。

 しかし、大事なのは人がどう見るかではないのです。神様がどう見ていてくださるかなのです。どんなあばら屋であっても、神様が大枚はたいて買い取って、御自分が住まうと言われたら、それは神殿なのです。神様が私たちを御自分のものとするために差し出された代価、それは独り子の命です。私たちはキリストの血潮をもって贖われたのです。買い取られたのです。言い換えるならば、このあばら屋にそれほどの価値を見てくださり、そこまでして御自分のものとされたのです。ですからパウロは言うのです。「あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」。

 そう考えますと、私たちが自分自身をけなしたり、くさしたり、価値のないもののように扱うことは、買い取ってくださった神様に対するとんでもない侮辱であるとも言えるでしょう。自分のものだったら、貶めてもまあ良いでしょう。しかし、もう自分のものではないのですから。他人様が大枚はたいて買ったものを悪く言ったり貶したりしたら失礼でしょう。神様のものも、同じです。

 神様のもの、大切にしましょう。神様が御自分のものとされたこの体、この体によって営まれるこの人生、大切にしましょう。聖書は言います。「あなたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」と。買い取られた体。キリストの命の値が付けられた体です。そのようにして神の栄光を現すための体となりました。そのことをひたすら考えて生きるべきなのでしょう。私たちの体はキリストの体の一部です。私たちの体は、神の霊が宿ってくださる神殿です。神様は私たちをそのように見ていてくださいます。私たちもそのように自分を見なくてはなりません。私たちが自分をどのように見るか。そのことによって私たちの生き方は決まってくるのですから。

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