「救いは神のプレゼント」
2012年1月8日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 エフェソの信徒への手紙 2章1節から10節
生きてる?死んでる?
「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」(1節)。本日朗読された聖書箇所に出て来た言葉です。「死んでいる」とか「生きている」という言葉が、くだけた日常会話の中で比喩的な意味で使われることがあります。「どう?あいつ元気にしてる?」「いやあ、あいつは出さなくちゃならないレポート七つかかえて、死んでるよ」。そのような会話を聞いて、本当に死んでしまったと思う人はいないでしょう。それは明らかにぐったりしているという意味です。その人が学校に出て来て「いや、まいったよ。さすがに昨日は死んでたよ」と言った時、目の前にいるのはゾンビだと思う人はいないでしょう。
そのように、「死んでいる」とか「生きている」という言葉が人間の肉体的あるいは精神的状態を表す比喩として用いられるので、今日お読みしたような箇所を読む時には注意が必要です。ここで「あなたがたは死んでいたのです」と書かれている時、実際に息絶えて葬られた人々について書かれていると思う人はいません。しかし、これが単純に精神的肉体的状態を表す比喩的な表現かと言えば、そうではないのです。ここではわざわざ「自分の過ちと罪のために死んでいた」と書かれているのです。
もちろん、自分の過ちと罪によって精神的な影響は受けるでしょう。精神的に「死んだような状態」になることもあるでしょう。あるいは肉体的に影響を受けることもあるかもしれません。過ちと罪のゆえに、体調が著しく悪くなる、あるいは病的な状態になることもあるでしょう。しかし、自分の過ちと罪が最も大きく関わってくるのは、精神的な状態でも肉体的な状態でもないのです。そうではなくて、「死んでいる」というのは、神との関係の話なのです。
それはイエス様のなさった一つのたとえ話を思い起こしてみると良く分かります。放蕩息子のたとえ」と呼ばれるものです。ルカによる福音書15章11節以下に記されています。良く知られている話ですので、あらすじを簡単に述べるに留めます。
ある人にふたりの息子がありました。そのうちの弟の方が、ある日、父親に言うのです。「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」。それから幾日もたたないうちに、弟は自分の分を取りまとめて父のもとから旅立ってしまいました。そして、父から遠く離れたところで彼は放蕩に身を持ちくずして財産を使い果たしてしまうのです。彼は何もかも浪費してしまいました。すると、折悪く、その地方が飢饉に見舞われます。食べるものがありません。彼は豚を飼う仕事にやっとありつきました。彼は豚の餌をたべたいと思うほど惨めな状態になりました。その時初めて、彼は父親を思い起こすのです。そして、父親のところに帰ろうと思うのです。彼は長い旅をして父の家が見えるところまでやってまいりました。すると、まだ家は遠く離れていましたのに、なんと父親が彼を認めて走ってくるではありませんか。父は戻って来た彼を既に赦しているのです。そして首を抱いて接吻し、僕たちに命じて祝宴を開かせるのです。
これは先にも申しましたように、しばしば「放蕩息子のたとえ」と呼ばれます。しかし、ここで重要なのは彼が放蕩に身を持ち崩したことではありません。そうではなく父のもとから離れてしまった、ということです。放蕩に身を持ち崩したというのは、その一つの現れに過ぎません。離れていることが問題なのです。もちろん、イエス様は神と人との関係について語っておられるのです。
ところで、この物語には続きがあります。お兄さんが怒るのです。お兄さんは優等生です。ですので、今さらのこのこ帰って来た弟のために牛をほふって祝宴を開くという父親の気持ちが理解できません。しかしその時、父親は兄をなだめてこう言います。「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(ルカ15:32)。そうです。「死んでいたのに生き返った」と父親は言うのです。いいえ、弟は死んではいません。死んでいたら帰ってはこれません。彼は放蕩していただけです。しかし、父親から見るならば、彼は死んでいたのです。父親との関係において死んでいたのです。
今日の聖書箇所に語られているのも、まさにこのことです。あの父親と弟息子の関係のように、人が神の愛に背を向け、神から離れ、神との生きた交わりを失っているならば、それは神との関係において死んでいるのです。それを教会は昔から「霊的な死」と表現して来ました。私たちは肉体的な死については大いに問題にし、それゆえにまた悩み苦しみますが、本当は霊的な死の方がより重大かつ本質的な問題なのです。それは神との関係ですから。それはこの世のことではなく、永遠の救いと滅びに関わることですから。
しかし、憐れみ豊かな神は
もちろん神との関係、人間の霊的な状態というものは、この世における具体的な生活と深く結びついています。目に見えるものは目にみえないものと深く結びついているのです。死んでいるならば、それが「霊的な死」であっても、それは現実に目に見える形になって現れてくるのです。それをパウロは次のように表現しています。「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」(2‐3節)。
生きている魚は川の流れに逆らって上ります。死んでいる魚は川の流れに流されます。同じように、霊的に死んでいるならば、この世の大きな流れに流されてしまいます。「この世を支配する者」とか「空中に勢力を持つ者」と呼ばれているのは、他で「悪魔」(6:11)と呼ばれている存在です。それを悪魔と呼ぶにせよ、何と呼ぶにせよ、人は確かに自分を超えた力によって引きずりまわされるようなことをしばしば経験いたします。この世界には人間を罪へと押し流していく力が確かに働いているのです。
「そのように、あなたたちは過ちと罪とを犯して歩んでいたのだ」とパウロは言います。そしてさらに「わたしたちも皆…」と続けます。これは驚くべき言葉です。彼は戒律の厳しいユダヤ人社会で生きてきたのです。ユダヤ人の社会は、表面的に見るならば極めて秩序正しい社会なのです。そこにおいて彼も経験な真面目な生活をしてきたのでしょう。しかし、彼は自分たちも例外ではないと認めるのです。「肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動してきたのだ」と言うのです。表向きにどんなに真面目な生活をしていたとしても、外側をどんなに綺麗に美しく繕ったとしても、霊的に死んでいるなら罪へと引き行く肉や心の欲するところに引き回されることになるのです。
このようにパウロは、「あなたがた」と「わたしたち」について語ってきました。聖書は非常に正直に人間の現実を語ります。そのような「あなたがた」と「わたしたち」だけであるなら、この人生にもこの世界にも全く希望はありません。しかし彼は、さらにこう続けるのです。「しかし、憐れみ豊かな神は…」。そうです。彼は憐れみ豊かな神について語るのです。ここに聖書の語る希望があるのです。4節以下をご覧ください。「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」(4‐6節)。
憐れみ豊かな神がおられます。霊的に死んでいる人を再び生かしてくださる憐れみ豊かな神がおられるのです。「憐れみ」とは、愛を受けるに値しない者になお向けられる神の愛のことを意味します。「この上なく愛してくださった」と聖書は語るのです。あの放蕩息子の父親のように、神に背を向け、神から離れ、本来のあるべき姿を全く失ってしまった私たちを、なお愛して、赦して、受け入れて、関係を回復してくださる神がおられるのです。そのような憐れみ豊かな神がおられるのです。
神の憐れみは、人間の歴史の中において具体的な姿を取りました。それがイエス・キリストです。神は独り子をこの世に遣わされました。神はその憐れみによって、私たち全ての者の罪をこの独り子の上に負わせ、私たちの罪の贖いとなされました。過ちと罪とによって死んでいたのですから、キリストによって贖われ、罪を赦されて、人は死から命へと移されるのです。神から離れ、神との交わりを失って死んでいたのですから、神との交わりが回復されて、人はよみがえるのです。
パウロは「キリスト・イエスにによって共に復活させてくださいました」(6節)と表現しています。キリスト・イエスによる復活。いや、復活だけではありません。「共に天の王座に着かせてくださいました」と言うのです。キリストが天の王座に着いているだけでなく、神は私たちをも、そのように天に連なる者としてくださるのです。御国を受け継ぐ天の王子、王女としてくださるのです。
これらすべては私たちの行いに対する報酬ではありません。いわば神のプレゼントです。そう書かれていますでしょう。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」(8節)。これは純粋に神の恵みによる賜物、プレゼントです。そのために私たちは何もしていません。神様がキリストにおいてすべての人のプレゼントを御自分で準備してくださいました。私たちはただ感謝して受け取るだけです。
「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」。プレゼントの箱の中にそのすべてが既に入っています。だから既に実現したこととして書かれているのです。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」と書かれているのです。その箱の中身を完全に自分のものとし味わい知るのは先のことになるでしょう。天の王座に着いているどころか、この地上を這い蹲っているような姿がまだまだ私たちの現在の姿であるかもしれません。しかし、既に神の愛の中に回復されているのです。今、既に神を礼拝する場所にこうして身を置いているのです。プレゼントを受け取ったならば、その箱の中身を味わい始めているのです。そうです、その神の救いの一部を日に日に味わいながら、希望をもってこの世を生きる。それが私たちの信仰生活です。救いという賜物をいただいた者の生活です。




